(帯より)
SF史上最多数の栄誉を受け、21世紀の古典の座を約束された、感動のオムニバス長編
少し古い(10年と少し前)作品だけど、久しぶりに大量に読んだ勢いにまかせて、これも一気読み。以下に各短編のタイトルを示す。プロローグとエピローグをあわせて 10 作品。
- プロローグ: もうしぶんのない朝を、ジャッカルとともに
- 1. キリンヤガ
- 2. 空にふれた少女
- 3. ブワナ
- 4. マナモウキ
- 5. ドライ・リバーの歌
- 6. ロートスと槍
- 7. ささやかな知識
- 8. 古き神々の死すとき
- エピローグ: ノドの地
雑感
買ってから10年以上放置しておいたものの言うことではないけれど、SF が好きで、かつまだ読んでいないなら、いますぐ買いに走った方が良い。さいわい Amazon でも在庫はある。10年前の出版物としては入手しやすいようだ。
ざっくり言えば、楽園を作ろうとした老人の挫折の物語。老人が求めた楽園とは何か。なぜ失敗するのか。そもそもこれは楽園だったのか。読み手にそういうことを考えさせる作品集。
作者自身がいちばんのお気に入りだと言う(作者あとがきより)「空にふれた少女」は、ティプトリーの「たったひとつの冴えたやりかた」と並べておきたくなる作品。こう書けば、「たった…」を知っているなら物語の筋がおおよそ見当がつくだろう。訳者が言う、だまされたと思って読んでみて欲しい、と。その価値は確かにある。ただ、単独で読むよりも「ささやかな知識」とあわせて、一対の物語として読んだ方が良い。
「空に…」も「ささやかな…」も良いけれど、わたし自身のベストを挙げるなら「マナモウキ」。楽園の崩壊を予兆させる内容なのに、コミカルな印象を持つ作品。神の代弁者として絶大な力を持つ賢者が、中年の主婦のわがままに振り回される姿は喜劇そのもの。作品集全体を通して重いトーンが続く中で、唯一笑みを浮かべられる部分だ。もっとも、物語自体はやはり重い。楽園が崩壊する理由をもっともストレートに表している作品だ。
エピローグとなる「ノドの地」はイマイチ。とくにクローニングにより復活させられたゾウは余計なガジェットだとしか思えない。
知識は呪
主人公、コリバを中心とした長老たちは、自分たちの民族にとっての楽園を建設するために厳しい規制を設ける。伝統という名で呼ぶそれに反する一切を拒絶する。伝統によってのみ楽園を成立させ維持することができると信じて。伝統により、(西欧的な観点からすれば)貧しく苦しい暮らしを保つ。伝統を守るため、けがや病気を癒す科学技術にも背を向ける。伝統の名の下に、生まれたばかりの健康な子どもを間引く。
伝統を保持するために鍵となるのが、楽園の住人たちを無垢な状態に保つこと。そして、無垢すなわち無知でもある。けがの痛みをやわらげ、病気を癒す薬の存在を知らなければ、苦痛に耐えるしかない。うまい食べ物を知らなければ、粗食にも耐えられる。きれいでやらわかな衣服に身を包んだことがなければ、着飾ろうと思うこともない。
コリバたち長老は、知識を限定することが善であり、住人たちを幸福にすると決めつけた。無制限の知識は、楽園を外の世界に同一化させてしまう呪いであると考えた。そして自らも限定的な知識による制約に縛られることを受け入れた。得るために、失うことを良しとした。すべては楽園を実現させるため。
しかし、選択権を与えられなかったものが現れる。楽園で生まれ、育った子どもたちだ。彼らは大人たちが幸福と引き換えにあきらめたものを知らなかった。それが、注意深く設計された楽園を変質させてしまうものだとは思いもよらなかった。だからこそ、知識のかけらを見つけたとき、そのまぶしさに魅了された。
(空にふれた少女; p.97)
「あなたはただの人間よ」カマリは疲れきった声でいった。「もう最悪の呪いをかけてしまったわ」
コリバの持つ知識の一端に触れた少女は、女であるという理由で、知識の伝授を拒絶され、考えることをも禁じられる。彼女は自ら死を選ぶ。他に生きる道があるとは思えなくなっていたから。暗闇の中で光を見つけたものは、ふたたびそれを失うことに耐えられない。
一方、コリバの後継者として育てられた少年は、与えられた知識によってコリバの行動が、楽園の伝統が欺瞞であると反発する。
(ささやかな知識; p.359)
それよりも、いったん知識を得たら、それが自由にあたえられたものであろうとなかろうと、心をもとにもどすことはできないんだと教えるほうがずっとわかりやすい。 (……中略……) おまけに、ぼくは自分の得た知識を返したくない。もっと多くのことを学んで、すでに知ったことは忘れないようにしたい。
彼は(コリバたちのつくった)楽園ではなく、外の世界を選ぶ。
知識は呪いだ。外から見れば、知らないことは不幸に見える。けれど知らない当人にとっては、知らないのだからそもそも比較のしようがない。嘘だと思うんならチャーリーに聞いてみると良い。
楽園という名の箱庭
主人公、コリバは楽園をつくろうとした。彼と彼の民族がもっとも幸せだった時代の暮らしを再現しようとした。西欧文明が持たらした豊かな生活と引き換えに失なったものを取り戻そうとした。高等教育を受け、西欧文明を形作るものを理解した上で、そのすべてに背を向けた。
コリバが目指したものが彼にとっての楽園であったことは間違いない。彼は楽園を手に入れ、その保全に力を尽くす。楽園を楽園たらしめている伝統を、その住人に強制することで。
けれど、この小世界は本当に楽園なのだろうか? 生まれたばかりの子どもを逆子だったからというだけで殺す世界は誰にとっての楽園なのか(「キリンヤガ」)。健康で、自らの仕事を十分に心得ていて働き続ける意思のあるものが、ただ年老いたというだけで隠居して無為に暮らさなければならない世界を楽園と呼べるのか(「ドライ・リバーの歌」)。
ここで描かれる世界は読み手の共感を呼ぶことはない。この世界はコリバという男の、(西欧)文明世界に疲れた老人の恣意的な箱庭にすぎない。だから、彼は外からの侵入者を(歓迎するふりをしながら)排斥する。住人からの(変化に対する)反発を武器にして。
(マナモウキ; p.222)
生まれてからずっとこういうところを夢見てきたの。せっかく実現したんだから、絶対にここを離れるつもりはないわ。そのためならなんでもするつもりよ
この世界を楽園と信じた侵入者は、世界と融和するために次から次へと譲歩を求められる。あれをするな、これをしろ、その考えは間違っている、と。侵入者は犠牲をはらうことに疲れ、楽園だったはずの世界を去る。
しかし、楽園にも終わりが来る。いや、この小さな世界は終わらない。終わるのはコリバのつくった箱庭としてのキリンヤガだ。住人たちがコリバと、彼の押し付ける伝統に疑問を持つようになるとき、楽園は終わり外の世界の一部にもどる。
神になろうとした老人
コリバが語る寓話の中で、彼の民族が信じる神が登場する。神の語る言葉が伝統であり、楽園としてのキリンヤガを形作る制約だ。しかし、それはコリバの言葉でもある。むしろ、彼の言葉でしかない。コリバは神を演じていたのだ。他の誰の言葉にも耳を貸さないわがままな神を。
しかし、コリバの民はその言葉に疑問を持つ。彼が演じる神(とその罰)よりも、外界から入ってくる文明のかけらを求める。もはやキリンヤガに神は必要ない。
エピローグとしての「ノドの地」では、ケニアに戻ったコリバの姿が描かれる。皮肉なことに、そこでのコリバの振る舞いは、彼が民族の伝統として定めた規則からまったく外れたもの。伝統は老いては子にしたがえと求める。キリンヤガでは、それに反する老人に厳しい罰を与える。その彼自身がケニアでは息子の諫めに耳を貸さない。そこにいるのは、ただ頑固なだけの老人だ。求めることだけ多く、求められることに応えようとしない愚か者だ。神になろうとして失敗し、失敗したことの意味を理解しようとしない男だ。
関連作品
「空にふれた少女」とあわせて読みたい、ってところかな(↓)。
早川書房 ( 1987-10 )
ISBN: 9784150107390
おすすめ度:
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