言わずと知れたクラーク最後の長編。タイトルの最終定理とはフェルマーの最終定理のこと。数百年にわたり数学者を悩ました問題の 1 つで、1995 年にワイルズによって解決されたあれだ。数学者でなくとも数学好きなら中学や高校のときに一度は目にしたことのある定理だろう。
2 つの物語
これは 2 つの物語が(ほぼ)並列に語られる作品だ。1 つは主人公となるスリランカの数学者の半生を描くもの。もう 1 つは銀河間スケールで活動する知性体による人類粛清の物語。
主人公のランジットは数学を志す学生だったが、ひょんなことから海賊の一員と間違われ投獄、拷問の憂き目に会い、友人の尽力で解放され、最終定理の「簡潔な」証明を発見したことで著名な数学者となり、美人と結婚し、娘と息子に恵まれ、幸せに暮らす。
一方、いくつもの銀河に君臨するグランド・ギャラクティクスは、核をもてあそび始めた地球人類を有害な存在とみなし、従属する種属にその粛清を命じる。が、土壇場で気を変え、人類は滅亡を免れる。
2 つの物語は終盤でランジットの娘を接点として絡み合う。この点を除いて、2 つの物語は独立していると言って良い。ランジットはグランド・ギャラクティクスの決定に対して何ら特別な影響を及ぼさないし、グランド・ギャラクティクスとその従属種属は取りたてて(最終定理をふくむ)数学に興味を示しはしない。
絡むようで絡まない 2 つの物語。それがこの作品の特徴だ。
SF らしさ
SF として見るなら、本作はこれまで SF が生み出してきた楽天的なアイデアの数々を盛り込んだ作品になっている。世界政府しかり、宇宙エレベータしかり。さまざまな銀河種族に君臨するオーバーロード(超知性)も、今では懐しく感じる。これらを題材としたクラークの他の作品を思い出すのも楽しい。
また、あわや人類滅亡かという瀬戸際まで行くものの、最後は大団円で終わるところも、読後感すっきりの古き良き SF を思い出させる。
クラークと言うよりはポールの作品
全体の語り口を通して感じられるのは、フレデリック・ポールの作風。ことに異星人の描写ではそれが顕著だ。どちらかと言うと淡々と事実を叙述するクラークのそれとは異なり、描き方に起伏が感じられる。読んでいて「ゲートウェイ」のことを思い出した。とくに終盤で主人公(をふくむ人類)がマシンの中(のシミュレートされた環境)で生き続けるという辺りではその思いを強くした。
解説によれば、本作は、クラークが基本的なアイデアと原稿の一部をポールにわたし、ポールがそれをもとに書き上げ、クラークがチェックをして完成したとのこと。ポール風味になっていて当然か。
かといって、クラークらしさが感じられないかと言うとそうではない。とくに主人公が退屈な大学の授業の中で天文学の講義に魅せられる様子や、スカイフック(宇宙エレベータ)が登場する辺りは、クラークの SF 作品に多く見られる(というよりクラーク自身の)「宇宙への憧れ」がストレートに表われている。
不満は……
唯一の不満点はタイトルになっている「最終定理」が、物語の展開上、ほとんど意味のないこと。暴虐な異星人を撃退するために使われることもなければ、異質な知性とのコミュニケーションに必要なわけでもない。ただ、その証明が主人公のキャリアの転回点になったというだけの扱い。看板に偽りありだ。
ストーリー上、主人公が数学者である必然性はまったくないし、フェルマーの最終定理を持ち出す必要も感じられない。タイトルからイーガンの「ディアスポラ」ようなものを期待していると裏切られることになる。
この点に目をつむれば、読んでいて楽しく、読み終わって爽快な良作 SF だ。
参考文献
本作中で「スカイフック」として登場する宇宙エレベータについて知りたいならこの本を読むと良い。
宇宙エレベータを描いた SF ならこれ。シェフィールドの「星ぼしに架ける橋」(ハヤカワ文庫 SF)も有名だけど、こちらは現在では入手困難。
こちらは数学が物語に織り込まれた作品。
関連リンク
- An appreciation of Arthur C. Clarke (Official Google Blog; 90 歳のクラークのスピーチが見られる)
- SF作家Arthur C. Clarke死去 (スラッシュドット・ジャパン)
- フレデリック・ポール (Wikipedia:ja)
- フェルマーの最終定理 (同上)
- グレッグ・イーガン (同上)