2009-11-28

フリーランチの時代 ([著]小川一水, [版]ハヤカワ文庫JA930)

フリーランチの時代
小川 一水
早川書房 ( 2008-07 )
ISBN: 9784150309305
おすすめ度:アマゾンおすすめ度

小川一水の短編集。表題作から「Slowlife in Starship」までを読んだところだ。

収録作品

  • フリーランチの時代
  • Live me Me.
  • Slowlife in Starship
  • 千歳の坂も
  • アルワラの潮の音

雑感

表題作の「フリーランチの時代」は、もし何もかもがタダもしくは、コストを無視できるぐらい非常に安価で手に入れられるようになると聞いたら、あなたはそうなることを選択するか、というような内容。

無論、変化にはそれなりの代償が必要。あなたにとって、大事かどうかはわからないけど、ヒトとして本質的な何かと引き換えにしても「フリーランチ」を選びますか、そういう選択を突きつけられる。ある者は不可避に、別の者は生命体につきものの欲求と決別するため、またある者は自らの知識を拡大するため、それぞれに「フリー」となることを選ぶ。

さて、あなたならどうする? わたしは、一も二もなく飛びつくだろうな。食う心配(他にもいろいろあるよね)をしなくて良くなるなら、ヒトでなくなったって構わない。

「Live me Me.」はラストがちょっとつらい。話の筋から言って、大団円のまま終わることは無理なんだけど、やはり、ちょっとね。ヒトって何、知能ってどういうもの、意識ってどこにあるの? そう問いかける物語。

「Slowlife in Starship」では、表題作とは違った形でフリーランチが実現された世界を描く。あらゆるものがタダで、というのとは違うけれど、生きていくのに困らない程度のものは非常に安価に贖えるようになった時代。ヒトはどう変わるのか? 皆が抱く、素直な疑問に対するひとつの解答(有り得る姿)。それは「際限ない発展」と「引きこもり」。

比類なき自負心を武器に、人類の領土を着実に広げていく人々が形づくる世界。その片隅には、ニッチな生産にたずさわることで人類社会とゆるやかな交渉を保ちつつも、自分の世界から出てこようとしない人々がいる。人類に星々の征服を可能にした技術が、その一部を何万という小惑星に「引きこもる」ことも可能にしたのだ。

タイトルにある slowlife は、そんな「際限ない発展」と「引きこもり」の狭間を行き来しつつ暮らすこと。太陽風に吹かれながらゆっくりと太陽系を進む、そんな生活のこと。

遠い未来の物語のようなんだけど、実は現在にも似たような状況は存在している。だからこそ、こういう明るく前向きなラストにしたんだろう。そこはちょっと気に入らないが、それは読む側が中年のオッサンだからかもしれない。

さて、フリーランチについて、もう少し語ってみよう。

フリーランチの時代

(p.45)
「地球の皆さん、私たちは宇宙人になりました」
どっと報道陣が笑い崩れた。三奈もほほえんで続けた。
「これからはどこにでも行けます。たくさんの仲間ができます。地球はすごく変わります。(・・・中略・・・)
しかし次のひとことは、今ひとつ理解されなかった。
「それと、もうすぐみんなのご飯がタダになります」

タンスターフルという言葉を聞いたことがあるだろうか? "There ain't no such thing as a free lunch." の「略」で、「無料の昼食なんてない」と訳される。

それなりの年齢の SF ファンならどこかで耳にしたことがあるだろう。 ハインライン好きなら知らないはずがない。その代表作「月は無慈悲な夜の女王」で登場する思想(?)だ。わたしはこれをこう言い換えている。「タダで飯は食えない。もしタダで食っているなら、どこかで、誰かがその分を払っている。」

タンスターフルは人類が作り上げた経済というシステムに対する素朴なモデルであると同時に、この冷たい宇宙に対する現実的なスタンスでもある。宇宙は生命には過酷な環境だ。その片隅でようやっと青息吐息で命をつなぐのが精一杯。エントロピーは増える一方で、無から有はどうしたところで涌いてこない。せめて、ガンバった分だけでも手に入れようとあがくけれど、砂は指のすき間からこぼれて落ちるばかり。それが「タンスターフル」の支配する世界。

一方で、ITの世界で言われるチープ革命のような現象が、IT に限らず実現するんじゃないかという期待を抱かせる。誰もがコストを意識することなく必要十分なモノを手に入れられる世界の到来。それは、かつて昭和の子どもたちが 21 世紀に描いた夢とは少しちがうけれど、ある種の理想郷ではないか?
(ま、2008年秋以降の経済状況がすべてを吹き飛ばしてしまったけどな)

ちなみに、本作でフリーランチを実現する技術は、「不全世界の創造手」に登場したそれと基本的には同じ。完全な無料は実現できない、けれどとてもとても安くすることはできる。十分に安くなれば、それは無料と区別がつかない。そういうもの。

タンスターフルとフリーランチ、どちらも世界に対する捉え方を一言で表現したものだ。欠乏と豊穣と言い換えても良い。前者は厳しく、後者は優しい。いや、フリーランチはむしろ「ぬるい」と言うべきか。その差が「月は無慈悲な夜の女王」の月世界人と「Slowlife in Starship」の小惑星人(ベルター)の生き方の違いを生む。欠乏の経済は勝目の少ない(1 対 7)革命に喜んで身を投じる人々を育み、豊穣の経済はそこそこで満足し、他人との関わりを忌避し、小さな世界に閉じ込もる人々を生む。ま、前者が良くて、後者が悪いというような問題ではない。幸せは人それぞれなんだから。ただ、SF では良く描かれるが、満足している種族は不満を抱えた種族に簡単に滅ぼされる。ああ、そうか。これはゲーム理論の説明で出てくる「タカとハト」の世界なんだね。

実は「フリーランチ」にはもうひとつ、影と呼ぶべき部分がある。それはヒトはパンのみにて生きるにあらず、という言葉が良く表してくれる。ヒトの欲には限りがない、食欲を始めとする基本的な欲求、さらには老いることや病気からも解放されたとしても、完全な満足は得られないだろう。それが「Slowlife in Starship」で描かれるスピノールのような人々だ。もっと遠くへ、たとえばそう思う人にとって、生きるに困らない程度のそこそこのエネルギーではまだ足りない。助けにはなっても解決にはならない。だとしたら、そこに欠乏が生まれる。足ることを知らない人がいる限り、完璧なフリーランチは到来しない。人類はいつまでたっても豊かにはなれないのかもしれない。

もうひとつのフリー

ところで、プログラマなら誰でも、「フリー(free)」という言葉が持つ、もうひとつの意味について考えたことがあるはずだ。free lunch の free じゃなくて、free software の free、すなわち freedom のことを。この 2 つのフリーをきちんと使い分けることは、21 世紀のプログラマにとって必須のスキルだ。しかし、フリーランチな世界について考えていくと、ふと疑問が涌いてくる。本当に、この 2 つは別のものなんだろうか、と。フリー(自由)であることがフリー(無料)の状態を導き、逆にフリー(無料)であるからこそフリー(自由)を担保できるのではないのか? 実は、同じ「何か」を別の視点から眺めているだけなんじゃないか?

この辺りのことは、また別の機会に考えよう。

追記@2011-01-15

残りの 2 作品については以下の記事を参照のこと。

関連リンク

参考文献

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