発明おじさんの言うことには、いろいろ考えさせられることが多い。
第40回 そもそもの台頭 | 増井俊之の「界面潮流」 | WIRED VISION
計算機の中にも不要なものが沢山残っています。たとえばワープロや図形エディタには「セーブ」機能がありますが、そもそも編集したものはセーブしたいに決まっていますから、そのような機能を特別に用意するのは変な話です。また、各種の検索システムには「検索」ボタンが用意されていますが、そもそも検索条件を指定したら検索したいに決まっていますから、検索ボタンなど押さなくても自動的に検索を実行しても良いはずです。
自動セーブやインクリメンタル検索を行なうシステムはまだ主流にはなっていませんが、将来はこれがあたりまえになるでしょう。
たいていの「オートなんとか」には賛成なのだけど、「やり直し」が効かなくなるような場面では問題になるかもしれない。今のコンピュータのほとんどはユーザの失敗に対して寛容さが足りない。失敗に備えて「やり直し」の機会を用意しておくことはユーザ自身の手に委ねられている。それでも「やり直し」はできる。実世界との大きな違いだ。「オートセーブ」は「無制限undo」とペアで実現しないと、ユーザ体験を著しく損うことになりかねない。少なくとも、今の(手動セーブの)コンピュータに慣れた人たちにとって。
「セーブ」という行為は実世界には存在しない。実体を持つモノに変化を加えたなら、それはその瞬間に世界の一部になる。取り返しはつかない。「あっ、今のナシ!」は、実世界ではただの愚痴にしかならない。「オートセーブ」は、この不自然な「セーブ」行為を不要にする。デジタルな仮想世界のモノを、アナログな実世界の物体に近付ける。一方で、デジタルな世界にだけ存在する「お手軽なやり直し」の手段を奪いかねない。
やり直しは「優しい」
やり直しの効かない実世界を操作する人たちは、自らの行為が失敗とならないように修練を積む。その結果、「この道、○○年」の職人たちは、一般人から見たら神業としか思えないような境地に達する。一方、「お手軽なやり直し」が可能な世界を操る人たちは、失敗を恐れる必要がない。いつだって元に戻せる。そのため、誰もが簡単に参入できる。
タイピングのことを考えてほしい。かつて機械式のタイプライタを使って(英文の)手紙や資料を作っていた人にとって、ミスタイプは作業のすべてを反故にしかねない致命的なものだった。現在、パソコンで文字を入力する人にとって、タイプミスは致命的でもなんでもない。ちょっと [Back Space] キーを叩く回数が増えるだけだ。かつてタイピストというのは専門の技能だった。今、パソコンでタッチタイピングできることは自慢にもならない(もちろんミスタイプなしで大量のデータを入力できるのであれば自慢して良い)。失敗を許容しない世界で熟達することは困難な道であり、ペナルティなしのやり直しが可能な世界は来る者を拒まない。
コンピュータリテラシーが(その実体が何であれ)一部の人だけが持つ特殊技能であった時期は確かにあった。今では、もうそれは一般的なスキルだ。マウスでドラッグ & ドロップできたり、Google で検索できたりすることは、「読み書き、そろばん」と変わらないものになった。誰もが身に付けるべき(付けなければならない)スキルなら、入門時の障壁は低いほど良い。
ある技能を身に付けるためには練習が必要だ。練習は試行錯誤の連続であり、つまりは失敗し続けることだ。だから、失敗を許容する環境は技能習得のためには理想的だと言える。いつだって「やり直し」が可能だという現在のパソコンの特性は、初心者に対する敷居の低さにつながっているはず。たとえそれが製作者の意図によるものでなかったとしても。意図しない特性だから、初心者の指導に対して有効に使われているとは言えないかもしれないけど。
初心者に優しいシステムがすべてにおいて最良のものだとは思わないけれど、世界にはコンピュータに触れたことのない人はまだたくさんいる。これから生まれてくる子どもたちもいる。一般的に子どもの方が適応性は高いけど、障壁は低いにこしたことはない。今のシステムが備えている「優しさ」は消さずに便利さを追求したいものだ。それが、意図的なものではなく、偶然備わったものであっても。
おまけ: そもそもセーブは…
「そもそも」で言えば、セーブなんて概念は、揮発性の主記憶と永続的な補助記憶という現在の汎用コンピュータのアーキテクチャ上の制約から生まれたものだ。不揮発性な装置は(主記憶としては致命的に)遅いか、(大容量にするととんでもなく)高いかのどちらかだから。電源を落とせば消えてしまう「はかない存在」が現在のコンピュータの実質なのだ。この「はかなさ」がなければ、コンピュータはどうなっていたんだろう(・ω・)?
0 件のコメント:
コメントを投稿