(第三章; p.227)
当時の数学者にとっては、不完全性定理が「完全犯罪」の証明のように見えたかもしれません。
実際に、ゲーデルの方法は、真犯人だとわかっていながら、いかなる司法システム S も立証できない犯罪 G を生み出したイメージに近いのです。(…中略…)
これをいくら繰り返して新たな司法システムを作っても、ゲーデルの方法を用いて、そのシステム内部でとらえきれない犯罪を構成できるのです。
ホームズがいくら経験を積んでも、常にモリアティ教授の方が一枚上手だってことですね。わかります。
不完全性定理の説明として、これほどイメージが捉えやすいものはないな。どれほど巧妙にシステムを構築したとしても、スルリとその網を抜けてしまうヤツがいる。
ところで、(ゲーデルの)不完全性定理の説明について、これまでこう思ってきた(↓)
「とはいえ、これは自然数論の話じゃん。他のシステム(たとえばヒトの知能)とかには関係ないよねえ」
世の中、そんなに甘くないらしい。
本書によれば、「ゲーデルの証明方法は、自然数論を含む数学システムすべてに適用でき」(p.243)、「さらに、数学を表現手段として含む物理学や科学全般のような広範囲の S の拡張システムについても」(p.244)、同じことが言え、ついには「いかなるシステムを用いても、すべての真理を汲み尽くすことはできない」(p.244)のだと言う。
う〜ん、夜も眠れなくなりそう。
すべての形式システムの不完全性と言われても、どこか抽象的で現実感が薄いのだけど、これがチューリング・マシンの限界を示す(p.249〜254)と言われると、とたんに身近に感じるようになる。なぜなら、チューリング・マシンはすべてのデジタル・コンピュータの基本原理であり、結局のところコンピュータはチューリング・マシンなのだ。
ではヒトの脳についてはどうだろう? 脳に宿る精神、とくに理性や知性(知能)と呼ばれるシステムにも、不完全性定理は適用されるのか? ゲーデル自身をふくめた科学者たちは、ヒトの知性はチューリング・マシンを超えるものだと考えているらしい(p.254)。これ自体は少し明い見通しをくれるけど、同時に別のさびしい結論を示唆する。というのも、すべてのコンピュータがチューリング・マシンとしての限界を持つ以上、人工知能は(少なくともヒトと同等の存在としてのものは)コンピュータを用いて実現できないことになってしまうから。
本章の残りの部分では、不完全性定理に関する研究の進展としてグレゴリー・チャイティンのアルゴリズム的情報理論について触れている。チャイティンの著作も何冊か、部屋にあったはず。
(おわりに; p.264)
本書において、「アロウの不可能性定理」と「ハイゼンベルクの不確定性原理」と「ゲーデルの不完全性定理」をまとめて『理性の限界』を探求するという無謀な試みに際して、私が最大の目標にしたのも、なによりも読者に知的刺激を味わっていただくことである。
うん、とても刺激を受けた。第二章はまだ読んでいないけど、第一章(アロウの不可能性定理)と第三章(ゲーデルの不完全性定理)で、十分に脳ミソが興奮した。
さっ、それじゃこの勢いでチャイティンの本も読んでみようか。
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